大河内パパ 最期まで自宅で過ごす
『最期まで自宅で過ごす』本人の強い意思と
『自宅で最期を見届ける』家族の覚悟
終末期リハビリテーション
命を考える経験をさせていただきました。
雨の多かった今年の夏
「訪問リハビリお願いします。」
それが大河内祥晴(よしはる)さんとの出会いでした。
息子さんは大河内清輝(きよてる)くん
自ら命を絶ちこの世を去りました。
中学2年生の時でした。
あれから27年
お父さんの祥晴さんはこの27年間、全国の悩んでいる子供たちに救いの手を差し伸べ、動けなくなる直前まで活動されていたそうです。
しかし、私がリハビリを始めたときにはすでにベッドで横たわっていました。
それでも最初の頃は軽く筋トレをしたり、支えは必要でしたが歩くこともできていました。
しかし、徐々に体力が落ちていき痛みも出てきました。
看護師と密に連絡を取り合い、薬で痛みのコントロールをしながらリハビリではマッサージが中心となっていきました。
毎日行きました。
ある日、よく来られている祥晴さんのお姉さんと妹さんから「私たちにも何かできることがあれば教えてほしい。」と言われました。
何かしてあげたいのだけど、何をしていいのかわからない、もどかしい気持ちは私も同じでした。
けれど「私なら体調が悪いときに誰かにそばにいてほしい、背中をさすってもらいたいと思うんです。何か特別なことではなく、その温もりで安心して眠りにつけると思うんです。」と伝えました。
お姉さんたちは「そっか、それなら私たちにもできるね。」と祥晴さんの手を握り締めながら言うと、
祥晴さんもうんうんと頷いてくれていました。
そんな祥晴さん、初めの頃は意識もしっかりとあったのですが
2週間ほど経った頃から徐々に夢と現実を行き来するようになりました。
ある日「あそこに男の子が二人並んで座っているけど距離が離れているなぁ。」
と小さな声で言っているのが聞こえました。
奥様が「お父さんどうしたの?夢を見ているの?」と聞くと「あぁ、そうかもしれんなぁ・・・」と目を細めながら言っていました。
私はきっと息子さんに会っているのではないかと勝手ながらそう思って、静かにマッサージを続けました。
しかし徐々にうとうと眠られる時間が増え、ひと言も交わさない日も多くなってきました。
日に日にか細くなっていく手足にかすれゆく声、痛みとの闘いにマッサージしかできないことを申し訳なく思いながらも、ただただ心を込めてやり続けました。
そして数日後、急変したと奥様より看護師に連絡が入り救急車を呼ぶか呼ばないかを話していると
祥晴さんは病院に行くことを頑なに拒否されたそうです。
きっと救急車で運ばれたら二度と家に帰ってこられないと思ったのかもしれません。
奥様は不安が拭いきれずにいたようですが、意を決したように「お父さん、家にいたいんだね。」「お父さん、ここがいいんだね、うんわかった。」と覚悟を決められたようでした。
そこから自宅で看取りの体制を整えるために通院から往診に切り替え、24時間いつでもかけつけられるように医師との連携も強化していきました。
そして8月24日の朝
息を引き取られたと看護師から連絡を受けました。
何ごともなければいつものように午後から訪問する予定でした。
前日に「また明日来ますね。」と言うと、うんと頷いてくれていたのです。
実感が湧かずに宙に足が浮いたような感覚のまま時間だけが過ぎていきました。
それから一週間ほど経ち、ようやくご挨拶に伺いました。
お姉さんが出迎えてくださったのですが、話していると自責の念を吐露されたので
家族みんなに見守られる中、苦しむことなく穏やかに息を引き取られたこと
そして何よりも本人の意思を尊重し、最期までご自宅で過ごせたことは家族の想いがあったからこそではないかとお伝えしました。
奥様も「本人も私たちもみんなが納得できた、うん。」と両手を握りしめながら力強く頷いていました。
清輝くん、お父さんには会えましたか?
これからは言いたいことを言ってやりたいことをやって親子水入らずの時間を過ごしてくださいね。
そして遺された家族にはこれからも人生が続いていきます。
悲しく辛いことは少なめに
楽しく嬉しいことを多めに
心穏やかに過ごせるよう
天国から見守っていてください。
最後に
この投稿に関してすべてを了承してくださった奥様に心より感謝申し上げます。
理学療法士として最期まで携われたこと、心より感謝申し上げます。
命の尊さ、命の重みを学ばせていただきました。
奥様をはじめご家族様のこれからの人生に幸多からんことを願っています。
訪問看護ステーションいこいの里